産業の発展

農業

日本の農業は、第二次世界大戦前から、“家族過小農経営”といわれ、“労働集約的多肥農業”といわれてきました。農業経営の主体は「農家」であり、“家族労働力の完全燃焼”を指標として経営が行われてきました。人間の営みとしての生産は、それ自体が社会的活動であり、社会を成り立たせるもので、昭和35年(1960)以降の経済社会の変動のなかで、産業構造も著しく変化してきました。

栽培作物の変化

江戸期

江戸期の農業がどのような仕組を持っていたかの知れる資料は、当市域にはほとんどなく、志多見の松村文夫家蔵の、天明8年(1788)の「農事記」(日記)によると、稲、麦、粟、大豆、小豆、芋、大根、菜、瓜、藍、木綿が栽培されていたことがわかります。稲、粟、大豆、小豆、などの穀物は、古代、中世から、また里芋や大根なども中世から栽培されていたと思われ、稲米は半分以上も取り上げられてしまうので、畑の雑穀類などの栽培が生活の必要からしだいに拡大され(領主は年貢確保の必要から奨励)、18世紀の後期には織物にかかわる木綿や染料の藍も作られていました。

明治期

近代の明治期に入っても大きな変化はなく、ただ、養蚕と桑の栽培の拡大が農業組織にも変化をもたらしました。幕末から明治にかけては、主穀農業の組織に加えて、青縞そのほか木綿の織物、染料の藍玉作りが当市域で盛行し、資本主義の成長過程のなかで農家経済の重要な支柱をなしました。

大正初期

外綿の輸入と綿糸、綿織物の法人企業の進出とともに、農家の副業として盛行した染料の藍作りや青縞織りは、20世紀の初めー大正の初期には消されることになり、それに変わって農家経済の現金収入の大きな支柱となったのが養蚕で、明治、大正から昭和の初期にかけて、当市域のほぼ全域に盛行しました。

第二次世界大戦後

養蚕は第二次世界大戦を境に減退し、化学繊維の登場とともに昭和25年から減少し昭和50年ごろには潰滅の状態になりました。

戦後

戦後から今日までに消えていった作物には粟、モロコシ、ソバ、ナタネなどがあり、水稲の増加の反面で陸稲、大麦、小麦、大豆、ジャガイモ、サツマイモなども、大いに減少しています。陸稲や大麦の減少は食生活ともかかわり、小麦は需要の増加の反面でアメリカ小麦に圧倒され、栽培面積が激減しました。しかし、53年には水田の減反政策の反面、小麦や大豆の増産政策が打ち出され、当市域の作付も増えています。

農業労働と技術の変化

耕起と整地

農業労働は、人間が土地・水・植物・動物に働きかける生産の営みで、それは人間が自然物の採集経済から生産経済に転換した文化活動であり歴史的な所産です。粟・稗・稲などの耕作を始めたころには、自然木や石器の道具が用いられていましたが、日本列島では古代に入ると中国・朝鮮からの鉄製農具が取り入れられ、農耕文化の画期的発展をもたらしました。

基本的な農具


イグワ

農具として基本的なものは、クワ・スキ・カマでしたが、それらは手の延長としての道具であり、改良が加えられながらも現代でもなお欠くことのできない農具です。田畑の耕起にはもっぱらクワとスキが、永い間用いられてきました。三本グワとも呼ばれた備中グワなども、関東に入ったのは江戸の中期以降であり、それがマンノウにもなりました。畑の耕起には江戸の中期以降、イグワ(鋳鍬)あるいはフミグワ(踏み鍬)と呼ばれた手と足を使うクワも用いられ、昭和初年ごろまで当市域で用いる人もいました。

カラスキ(犂)


改良持立スキ

オングワ

マングワ

牛に引かせて耕起するカラスキ(犂)は、すでに古代において輸入されていましたが、近畿とそれ以西を除いては容易に普及しませんでした。関東で水田の犂耕(耕起)が普及するのは江戸の中期ごろからで、田畑の耕起はもっぱらクワによっていました。その後、長床スキの大クワ(オングワ)が乾田の馬耕に用いられ、明治に入って軽便な“抱え持立て”スキが登場し、さらに西洋のプラウの改良型なども採用され、第二次世界大戦後の昭和30年~35年ごろから動力耕耘機を用い、二輪車型のものから四輪車型のものまで、機種と性能も次々に変化しました。

整地

整地には牛馬にマグワを引かせてならし、それを畑作にも用いましたが、主要な作業は水田の代かきでした。耕起作業に牛馬を用いることは少なかったですが、牛による代かきは近世以前から全国に普及しています。馬は乗り物や物の運搬に用いられて牛より高価であり、農耕には古代から牛が多く用いられました。もちろん、牛馬を使用できるものは、上層農家に限られており、近代に入っても牛馬を持たない農家は、労力交換などの方式で、牛馬を用いていました。その牛馬耕も、昭和30年~35年ごろから動力耕耘機に代わり、牛馬の姿は農場から消えました。

田植え


 機械を使った田植え

田植えは最も関心の深い集中的な重い労働でした。五月女の一人前の能力は植えるだけで一日10アール、苗取りを含めると5アールとういのが、江戸初期から第二次世界大戦後まで変わっていない。この田植労働を無くする方法として、第二次世界大戦前から直播法が研究され、戦後に当市域でも採用する農家が見られましたが、一般化するには至りませんでした。

田植えの機械化についても研究Sされてきましたが、特別なケースを用いての育苗法と動力田植機が開発され、昭和45年以降の4・5年間に広く採用されるようになりました。しかも、この田植えの機械化は苗づくりを変革し、苗取り作業も無くしたという、千年以上もの稲作の歴史にとって、全く革命的なものになりました。

収穫


 足踏脱穀機

 フルイ

稲・粟などの初期の収穫では、石庖丁による穂つみが行われましたが、鉄のカマの利用で根刈法に変わりました。刈り取った稲の脱穀には、竹材による扱い箸が近世の江戸期に入っても用いられていました。その中期ごろから先のとがった鉄板を台木に固定し、それに穂を引っかけて抜き落とす千歯抜き-金抜きが用いられるようになりました。

千歯抜きが足踏み回転脱穀機に変わったのが大正の後期ごろからで、第二次世界大戦に入るころから、回転脱穀機に石油発動機や0.5馬力の電動機が応用され、この間に畜力原動機の利用が一部で行われました。

稲の動力刈取機も昭和45年ごろから採用され始め現在では刈取り、脱穀選別を同時に行うコンバインの利用になり、電気乾燥機を用いて天日乾燥もしないようになりました。