■加須の偉人

明治期の社会運動家 田中 正造<たなか しょうぞう>

田中正造は、天保12年(1841)に旗川<はたがわ>村(現佐野市小中町)の庄屋、田中富蔵の長男として生まれました。

明治11年(1878)、政治に一身を捧げることを決意し、栃木県の区会議員に選出され、県会議員・安蘇<あそ>結合会・県議会議長などを歴任し、明治23年(1890)には第1回帝国議会で衆議院議員に当選しました。

そのころ魚や農産物に大きな被害を与えていた足尾銅山の鉱毒問題を国会で取り上げ、それ以来、鉱毒被害に苦しむ渡良瀬川沿岸の住民救済のため奮闘し、明治34年(1901)には死を覚悟で明治天皇に直訴し、それは社会問題にまで広がりました。

しかし、政府は谷中<やなか>・利島<としま>・川辺<かわべ>の三村を潰し、遊水地化することにより問題の解決を図ろうとしたため、正造は悲痛な思いで谷中村に住み、地域住民と共に不休の活動を続けたため、利島・川辺両村(旧北川辺町)は遊水地になることが避けられました。

正義を貫こうとする正造は、谷中村の貯水池化に反対し、谷中村強制破壊後も残留民と共に村に残り努力を重ねましたが、大正2年(1913)に72歳でこの世を去りました。