■加須の偉人

難問に挑んだ世界的数学者
谷山 豊<たにやま とよ/ゆたか>

 谷山豊は、昭和2年(1927)に騎西町(加須市騎西)に生まれました。

 もともとの名前は「とよ」と読むのが正しいものの「ゆたか」と読み間違える人が多かったので、いつからか本人も「ゆたか」と名乗るようになりました。そのため世界的には「ユタカ・タニヤマ」の名前で知られています。

 

 谷山は、騎西尋常小学校を経て、不動岡中学校(不動岡高校)、浦和高等学校へと進学しました。幼いころから利発でしたが、体が弱く学校は休みがちで、試験のみで進級をしていました。こうして、病と闘いながらも昭和25年(1950年)23歳の時に東京大学理学部に進み数学の研究に没頭しました。

 

 昭和29年(1954)27歳より東京大学理学部数学科助手、昭和33年(1958)東京大学教養学部助教授を務めました。

 同年、31歳で亡くなりましたが、彼をよく知る数学者志村五郎氏は「当時、最も輝いていた先駆的な頭脳の持ち主」と評し、彼の早すぎる死を惜しみました。

 

 谷山氏の功績に、数学史上最大の難問であり、証明されるまで360年かかった「フェルマーの最終定理」を解くために重要な鍵を握った「谷山-志村予想」を提出したことが挙げられます。これは、昭和30年(1955)栃木県日光市で開かれた数学の国際会議で若手数学者が中心となって未解決の興味ある問題を提起した中に、「谷山予想」(「すべての楕円曲線はモジュラーである」)が含まれていました。

 

 平成5年(1993)イギリス人数学者アンドリュー・ワイルズ氏により「フェルマーの最終定理」は証明されますが、のちに、ワイルズ氏は「フェルマーの最終定理」を証明するための核心は、「谷山-志村予想」を証明することにあったと語っています。